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『漫画雑誌 架空』情報リンク集
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『マンガ空間 走馬燈 #1』の感想①体裁、文章など
E いきなり表紙から「雨の日の虚無」ですか。本を手にした前後からずっと雨ばかり降っててまさに雨の日の虚無って感じでなんか予言的ですし。
A それ不謹慎。でも何かどっかで昔見たことあるようなデザインですね。私はやっぱり西野空男のやりたいことをストレートに表現してる『漫画雑誌 架空』の表紙が好きです。これ何かやりすぎって言うか技巧的って言うかせっかくのカラーなのにちょこっとしか色つかってないし表紙の裏の文字が雨だれのように透けて見えるようにわざと安い薄い紙を使ってるとことか。
E その表紙裏の詩は宮澤賢治の「春と修羅」の最初のさびの部分です。宮澤賢治は健康的なイメージあるけどこうして抜き出してみるとモロ暗いですね。〈いかりのにがさ〉とか〈唾(つばき)しはぎしりゆききする〉ってこの雑誌のもうひとりの主宰者夜業タダシのブログそのままじゃないですか。
A 小林坩堝『ヒカ』。漫画雑誌に詩ですね。冒険ですかね。準備号にもそれらしいものがありましたね。斎藤種魚より難解ですね。これ斎藤さんの変名じゃないんでしょうか。
E 偶然見たんですが『現代詩手帖』7月号の新人作品に入選してましたね。選評読むと夜業タダシと一緒の十代らしいです。
A えっ!はあ名前が〈るつぼ〉だし。ここに書かれているものはあの時代ですね。のっけから〈私たちは挫(くじ)け続けるほかない…〉だし。これも〈いかりのにがさまた青さ〉ですね。そうか~。そう言われてみると〈増血剤を下さい〉だとか〈革命〉〈妄執〉〈うらぶれた〉という言葉たちを醸造しないまま簡単に手放してる感じがしますね。単に時間的問題なのかもしれないけど。あるいはこの雑誌に寄り添いすぎて背伸びしたのかもしれませんね。
E 確かに彼女たちはTPOに長けてますから。って言うか若い人はだいたい若ければ若いほどそうでないと生きて行けないというか生きずらい世間ですから。
A えっ!女の子なの?
E ブログを見た限りではそんな印象です。でもほんとはお爺ちゃんかもしれませんよ。そのブログでも詩を読めるんですが多彩な才能を感じます。表面的には現代詩様式ですがこの詩よりも感情移入が持続できます。『詩手帖』の入選詩も今後2,3年後には詩壇の中心で活躍しているのを予感させます。ちなみに小林さんが載ってた『現代詩手帖』の翌月の8月号には評論家の久保隆がやはり新人入選してます。
A 権藤晋『映画「人情紙風船」にみる虚無感』。一見映画評に見えますがこれは仕組まれた思想の試金石ですね。いいんでしょうか漫画雑誌にこんな文章載って。昔の『夜行』みたいですね。この映画わたしは未見なんですが。
E 昔一度何の情報もなく見たんですがラストの紙風船が舞うシーンが綺麗だったという記憶しかありません。やはり映画が封切られた1937(昭和12)年という時代背景ですね。いま売れてるらしい『蟹工船』が書かれたのはプロレタリア文学隆盛の1929(昭和4)年。「人情紙風船」の監督山中貞雄はほぼ大正時代を思春期までに凄し1939(昭和14)年ノモンハン事件。国民徴用令公布。世界的には第二次世界大戦開始の前年28歳の若さで亡くなるんです。満州事変が1931年。国際連盟脱退が1933年。2.26事件が1936年。
A 激動の時代の映画なんですね。権藤はこの時代の民衆の虚無意識それらを掬い上げた「人情紙風船」の虚無感は健全だと言う。表現の理解力においても現在より数段優っていると言う。
E 余談ですがこの映画が封切られた年つげ義春が生まれてるんです。
A そして連続するようにこれより少し前の時代を写しているるのが夜業タダシ『正義の人 村木源次郎』ですね。
権藤晋と夜業タダシは何か結託してるんでしょうか。でもこれ本人が断わっているように秋山清と近藤憲二の引き写しでしょう。
E そんなのどうでもいいんだよ。村木源次郎は正義の人というより正しい人なんだよ。たぶん夜業タダシはこの正しい人を世間に知らしめたいんだ。みんなこうやって生きろって言ってるんだ。
A はあ。でもここで紹介されてる村木の詩がいいですね。次回話そうとおもってる屋我平勇の漫画と通じるものがありますね。(感想②に続く)
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通じてはいない

 村木の詩と、屋我作品はどこも通じ合うものはありません。
どこも?

もしかすると夜業タダシさんご本人ですか?
これは失礼しました。とはいえ、村木源次郎本人が否定するのでない限りここは譲れません。
評論なんて、自分が主張したいものを、他人の作品を都合のいいように寄せ集め、都合のいいように解釈し利用しているだけです。もちろん、私の文章もそうでしょう。
村木源次郎は36年生きました。夫である大杉栄が死ななければもっと生きたでしょう。夜業さんが読んだのは歴史上に登場したその何十分の一かの時間です。彼のほとんどの時間はそれ以外の時間です。無名の生活者の時間です。ここであまり書くと本文で書くことがなくなってしまうので軽くふれますが、私は屋我平勇の漫画は絵が優しいわりに難解だと思います。ギリギリのところまで絵もセリフもコマワリもそぎ落とされているからです。
私は難解が好きなので、わざと難解に読んでるだけかも知れません。手がかりとして『架空』2号の西野空男とのメール対談を読み直しました。言葉の端はしに意識的なニヒリズムを感じました。「柳緑地 つづき一」の主人公の男は何で自画像を書いているのだろう。何でそこに冬の雨を書き足さなければならないのだろう。そして何で屋我平勇は30数年の空白の後、再び漫画を描き始めたのだろう。
私は少なくともこの『走馬燈』の中で一番、村木の詩に近いと感じました。そしてこの雑誌の中で村木の詩に一番遠いのは……。あなたはどちらかをあるいは両方を読み誤っていませんか。
夜業さま、たった一行ではわかりません。〈どこも〉の意味をせめて十行くらいで説明して下さい。
無題

自分はナンカイなものは何回読んでも解りません。つげ義春以降と言われる作品は難解とは言われましたが、まったく難解だと自分は思いません。端的にいって情念として伝わってくるからです。
 屋我作品は自分にはどこにニヒリズムがあるのか解りませんね。所々に呟かれる言葉にも難解らしいふうを装ってるようにしか読み込めません。
 Ageさん、あなたこそ、肝心の部分はいってないではないですか。その部分をまったく説明しないうちから、どこが違うのか説明しろっていうのはおかしいでしょう。誰から見ても違いは歴然としているのですから。
 生活者としての村木の詩にはいわば書くべきことを書くという強い意志があった。生活者に強い意志が情念がないと自分は思わない。
 あと、自分は虚無の会とマンガとは一応切り離して考えています。また自分は村木になりたいわけではありません。それぞれの道があるのですから。
メールください☆

つげ以後の作品を情念と何回言っても難解とされるのは情念というものを理解しようとしたならばつまりその意識が社会通念と衝突してしまうからではないでしょうか?つまりわかりやすく言うならば社会生活を困難なものにしてしまうということではないでしょうか?だから一般人はこの世界に足を踏み入れない。さらに言えばエロサイトなどから欲望に忠実になれ社会通念を知れと再三に渡って警告を受けているのではないでしょうか?だからできるならば僕ちゃんたちはもっと情念をかくのではなく情念の描き方を学ぶべきではないだろうか?社会に適応可能で一般人に入り込む隙を持つ方法を‥‥
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